インターネット事業開始後、3年8ヶ月で独立系ネットベンチャーおよびインターネットサービスプロバイダとして日本で初めて店頭公開

「絶対にIPOする」――未経験のチームが切り拓いた店頭公開への道


1999年8月27日、インターキュー株式会社(現:GMOインターネットグループ株式会社。以下、インターキュー)は店頭公開を果たした。
インターネット事業の開始から3年8か月。
独立系ネットベンチャーおよびインターネットサービスプロバイダーとして、日本で初めての店頭公開だった。
その実現を後押ししたのは、着実に伸びる売上と利益だけではない。
株式公開の経験者がいない少人数のチームが、通常業務と並行して社内制度を整え、膨大な申請書類を作り、主幹事証券会社から寄せられる厳しい問いに答え続けた。
社内の準備チーム、外部の専門家、そして「絶対にIPOする」という方針を一度も揺るがせなかった熊谷正寿(当時、インターキュー株式会社代表取締役社長。現:GMOインターネットグループ代表取締役グループ代表。以下、熊谷)。
異なる立場の人々が同じ目標に向かい、インターキューを公開企業へと変えていった。

「55カ年計画」に刻んだ上場目標

インターキューの店頭公開は、同社の代表取締役社長であった熊谷がかねて描いていた人生計画の一つでもあった。
熊谷は、自らの将来像を20歳の時に記した「人生年表(55カ年計画の基)」に、35歳の誕生日である1999年7月17日までに株式公開を実現するという目標を掲げていた。
いつか上場したいという漠然とした願いではない。達成する日を明確に定めたことで、日々の経営判断や行動にも期限が生まれた。
店頭公開の準備では、社内制度の整備から申請書類の作成、主幹事証券会社による審査への対応まで、膨大な作業が求められた。数々の困難に直面しても、熊谷が方針を変えることはなかった。
実際の店頭公開は、目標としていた日から約1か月後の1999年8月27日となった。それでも、具体的な期限から逆算して行動を積み重ねたことが、インターキューを公開企業へと導く力になった。

「interQ ORIGINAL」が築いた事業基盤

店頭公開を支える土台となったのは、1995年12月に始まった非会員制インターネット接続サービス「interQ ORIGINAL」である。
上場準備時点では、会員制インターネット接続サービス「interQ MEMBERS」と法人向けインターネットサービス「interQ OFFICE」も提供していた。
しかし、審査では、すでに売上と利益を生み出していた「interQ ORIGINAL」に焦点が当てられた。
当時は、インターネットそのものが新しい産業だった。
定款の事業目的に「インターネット」という言葉を記すことさえ容易ではなく、既存の制度や審査基準に沿って、未知の事業を説明しなければならなかった。
そこで問われたのは、何によって売上を生み出し、どのような仕組みで成長していくのかという事業の実態である。
「interQ ORIGINAL」は利用者を増やし、売上と利益を着実に伸ばしていた。
上場準備を担当した島影将(当時、インターキュー株式会社社長室勤務。以下、島影氏)は、「売上と利益、これに尽きましたね」と振り返る。
将来性だけではなく、すでに積み上げていた実績が、上場を目指すうえでの確かな基盤となった。
一方、売上の拡大が、そのまま資金強化につながるわけではなかった。
ダイヤルQ2を利用した料金回収では、お客様がサービスを使ってから、NTTを通じて代金が入金されるまで2~3か月、場合によっては4か月ほどを要した。
売上を計上しても、すぐに現金が入るわけではない。
上場準備を外部から支えたアタックス(今井会計グループ。現:アタックス税理士法人)の野村正光氏(現:熊谷正寿事務所副社長 以下、野村氏)は、「売上が伸びるほど資金繰りが苦しくなる」と当時の構造を説明する。利益が出ていても、事業の拡大に必要な資金を先に用意しなければならなかったのである。
全国にアクセスポイントを広げるには、設備投資も欠かせない。
そこで採用したのが、地域の事業者に設備を負担してもらうフランチャイズ方式だった。
野村氏は、その理由を「お金がないので、設備をFCオーナーさんに出してもらってダイヤルQ2網を広げよう、というのがフランチャイズの理由です」と振り返る。
具体的には、アクセスポイントの設置予定地域でオーナーを募り、機器設置場所の提供とインターネット接続設備の用意を受け、開設後のアクセスポイントの収益を分配する仕組みであった。
資金の制約を事業拡大の仕組みへと転換し、全国展開を進めた。この実行力が、店頭公開を目指すうえでの説得力につながった。

未経験の4人で始まった上場準備

株式公開に向けた社長直轄のプロジェクトチームが動き始めたのは、1997年末頃だった。
本格的な作業は翌1998年春から始まった。
熊谷を除く中心メンバーは、稲葉幹次(当時、インターキュー株式会社 取締役社長室長)と姫路芳宏(当時、インターキュー株式会社 取締役管理本部長)と島影氏を含む4人である。
当時、資本政策はすでに作られていたものの、上場企業に求められる管理体制や社内制度は、十分に整っていなかった。
各サービスの会員規約を作り、日常業務の流れを見直すところから着手した。
4人のうち、株式公開の実務を経験した者はいなかった。島影氏は、その体制について端的に「全員が未経験でした」と述べている。
経験者が作った道筋をたどるのではない。必要なことを調べ、資料を作り、専門家から指摘を受けて修正する。
その積み重ねによって、公開企業に求められる仕組みを一つずつ築いた。
当時の経理体制はごく少人数だった。それでも、月次決算は翌月10日までに締めなければならない。
日常の業務を続けながら、上場申請に必要な書類も作成する必要があった。
作業が本格化すると、メンバーは会社に残り続けた。島影氏は、「会社に缶詰め状態で、土日は当然なし。
しかも連日終電帰りどころか、帰らずにサウナ泊まりが続きました」と振り返っている。
その負荷を支えたのは、与えられた仕事をこなすという意識だけではなかった。
「われわれが会社を変えて行くんだという意気込みがありました」
自分たちの手で会社を公開企業へ変える。その思いが、未経験のチームを前へ進めた。

野村證券との「千本ノック」

主幹事を務めた野村證券とのやり取りが始まると、作業の厳しさは一段と増した。
事業内容、収益構造、代金の回収方法、社内管理、将来のリスク。
資料を提出するたびに細かな質問が返され、多い週には数十件に及ぶこともあった。
回答するには、文章を整えるだけでは足りない。
根拠となる数字を確認し、業務の流れを整理したうえで、必要に応じて社内制度そのものを改めることも求められた。
当時の進行について、野村氏は「とにかく速かったです」と話す。
証券会社からゴールデンウィーク前に課題を渡され、連休明けの提出を求められることもあった。
短期間で正確な回答を返せるかどうかを通じて、上場後も継続して情報を開示できる組織なのかが試されていたのである。
「要求も厳しく、ほぼ土日もゴールデンウィークもなし。みんな寝泊まりして徹夜で資料を作りました」
「一の部」「二の部」をはじめとする申請書類の作成は、深夜まで続いた。日本証券業協会や財務局へ提出する文書には、「てにをは」を含め、わずかな誤りも許されない。
問いを受け、根拠をそろえ、回答を作り、再び指摘を受ける。
何度も続いたやり取りは、まさに「千本ノック」と呼ぶにふさわしいものだった。

社内外の専門家が支えた挑戦

公開準備は、社内のメンバーだけで進められたわけではない。
野村氏は、今井会計グループ側の担当者として名古屋から東京へ出張を重ね、申請書類の作成をはじめとする実務を支援した。
中央監査法人(後の中央青山監査法人)の担当者が休日に出社し、資料作りに加わることもあった。
宝印刷は、申請書類の表現や誤字脱字を細部まで確認した。
野村IRからは、投資家に会社の価値をどのように伝えるかについて助言を受けた。
外部の専門家も、決められた範囲だけで作業していたのではない。
締切が迫れば、社内のメンバーとともに夜遅くまで資料を整えた。
島影氏は、アタックスによる支援について、「ここ一番というときには、連日徹夜に近い状態で頑張っていただきました」と話している。
そのうえで、「アタックスさんのサポートなしではIPOできなかったといっても過言ではないでしょう」と振り返った。
社内と社外という立場の違いを越え、同じ目標に向かって力を合わせる。その連携が、経験のないチームを補い、膨大な作業を前へ進めた。

証券業界から見たインターキュー

インターキューの上場審査は、野村證券の公開引受部に所属する担当者が担った。
その後、証券アナリストとして同社の取材と分析を始めたのが、当時、野村證券に所属していた富松陽介氏(現:GMOインターネットグループ グループ経営支援本部。以下、富松氏)である。
富松氏は店頭公開そのものには関与していないが、本人の言葉を借りれば「インターキューをカバレッジした初のアナリスト」として、公開後の成長を継続的に見守り、アナリストレポートに評価を残してきた。
1990年代末は、将来性が先行して評価され、収益モデルを確立する前に上場するインターネット企業も現れ始めた時代である。
富松氏は、数年後の黒字化を前提に、いわば「成長の種」という段階で評価される企業も多かったと振り返る。
その中で、インターキューは異なる特徴を持っていた。
「堅実なビジネスモデルを一定規模で確立していたという点が、当時の他社との一線を画す違いだったと思います」。
新しい市場への期待だけでなく、すでに売上と利益を生み出す仕組みを数字で示していたのである。
当時の野村證券は、収益モデルが確立し、利益を生み出しているかを厳しく見極めていた。
富松氏は「野村證券は特に当時、IPOの選別が非常に厳しかったんです」と語る。
野村證券を主幹事として上場することは、一つのステータスであり、厳格な基準を通過した事実が投資家の安心感にもつながっていたという。
富松氏が注目したのは、業績だけではなかった。
初めて社内を訪れた際、来客を迎えるため社員が一斉に立ち上がり、声をそろえて挨拶する姿に強い印象を受けた。
後に作成したアナリストレポートでは、インターキューを「鉄の組織」と表現している。
収益を生み出す事業基盤と、それを支える規律ある組織。
上場後の歩みを分析してきた富松氏の目にも、インターキューの強さは、その二つが一体となっている点に映っていた。

最後まで予断を許さなかった審査

申請作業が最終局面を迎えても、店頭公開が確実になったわけではなかった。
上場準備に直接関わった野村氏によれば、主幹事の内部では、最後まで公開の可否を巡る議論が続いていたという。
「最後の最後まで、野村證券が本当に上場させるかどうか、いろいろ迷われたようです」
一時は上場を認めないという話も出るなど、審査は決して満場一致で進んだわけではなかった。
当時は上場するインターネット企業がまだ少なく、独立系プロバイダーの事業を、従来の企業と同じ基準だけで判断することは難しかった。
業績や管理体制を整えるだけではなく、新しい事業の将来性とリスクを、既存の審査制度の中で説明し切る必要があった。
審査結果を待つ日、準備チームは会議室に集まり、作業を続けながら知らせを待った。
やがて、公開へ進めるとの連絡が熊谷に届いた。
熊谷は会議室へ入ると、喜びを抑えきれない様子でガッツポーズを見せた。
張り詰めていた空気がほどけ、メンバーの間に安堵が広がった。
長い時間をかけて積み重ねてきた作業が、初めて明確な結果へ変わった瞬間だった。

「絶対にIPOする」という揺るがない意思

島影氏は、株式公開を実現するために最も重要なのは、経営トップの強い意思だったと振り返っている。
準備が長引けば、実務を担う側から時期を延ばしたいという声が出る。従来の制度や慣習を変えることへの反発も生まれる。
経営者が少しでも迷えば、会社全体の足並みは崩れかねない。
それでも、熊谷は一度も弱音を吐かなかった。
島影氏は、「『絶対にIPOするんだ』と、いつも全社員の前で公言していましたし、一度たりとも方針・計画がぶれることがなかった」と語っている。
その姿勢が、疲労の重なる準備チームを支えた。
「全社員のベクトルがIPOに向かって一つになっていました」と島影氏が振り返るように、上場は一部の担当者だけの目標ではなく、会社全体が共有する挑戦となっていた。

1999年8月27日、インターキューは店頭公開を果たした。

しかし、その成果を誰か一人の功績へ集約することはできない。
島影氏自身も、「IPOを成功させたのは私ではなく、あくまでも会社全体が一丸となって成功させたということです」と強調している。
社内の準備チーム、外部の専門家、厳しい問いを投げ続けた主幹事証券会社、そして目標を掲げ続けた経営トップ。
店頭公開は、それぞれが自らの役割を果たし、力を一つに束ねた成果だったのである。

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